昭和五十三年四月二十七日 朝の御理解
御理解 第七十九節 「商売をするなら、買い場、売り場というて、もとをしこむ所 と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものでないから働くが良い」
やはり人並みでは、やはり人並みである。
それこそ、体はちびるもんじゃないから一生懸命働けと、しかも他所よりも、例え ば、十銭のものは二銭安うして売れと。しかも卸先も大事にしなければならない、売り先も大事にしなければならない。
これだけのことをやはり為していくならば、確かに、これは商売に限らず大繁盛だろうと思うですね。
なかなか、それが出来ません。
できるだけ<おろ>働いて、儲かるだけは余計貰いたい。そのために信心しよるちゅうような人があります。
働かんで、そして例えば他所よりも安う売るどころじゃない高う売る。そして、体は他人よりか少しでも楽をしたい。ね。
それでいて、まあ、商売大繁盛のおかげをお願いしますと言うたって、これはやっぱり理が通りませんよね。
神様だって、やっぱ同じ、そんなことでは神様は受けては下さらない。
神様の言う通りに、いよいよ、売り場、買い場を大事にする。他所が十銭で売るなら八銭で売る。その上、体はちびれるもんじゃないから本気で働かして貰う。
それだけでも、私は繁盛するだろうと思うけれども、それが教祖の神様が御教えとして下さってあるのですから、御教えを行ずることになるのですから、おかげになるのです。
もう、これは本当に実行しなきゃだめです。ね。
他所よりも繁盛する。どうぞ商売大繁盛のおかげをと、本気で願うことは願いよるけれども、その教えの反対のことをしている。他所よりも高い。そして、他所よりも言うならばサービスが悪い。これでは到底、本当の繁盛には繋がりません。
私は、教祖の神様の御教えを、この様に実行するならね、商売人としての徳を受けると思うですね。 ですから、例えば、今日はなら商売をするなら売り場、買い場と言うて教えて折られますけれども、結局、商売をするなら合楽理念を以てする外は無いと、まあ、教祖も様々な表現を、そういう風に一言で決めても良いわけです。
合楽理念には、やっぱし同じことが書いてある。ね。
例えば、昨日の御理解を頂きましてもそうです。ね。とにかく辛抱力を作らなければいけない。
昨日は、もう本当に、あのう、電話でお届けがある、その殆どがですね。そこは辛抱しにくかろうばんってん、黙って辛抱しなさいと言う人ばっかりでしたがね。
もう朝の御理解を頂いとりますからもう答えはすぐ出てくるわけです。ね。
先年、ご主人を亡くされた或る未亡人の方から電話が掛かってきた。
亡くなられる時分に、大変まあ親切にいろいろ世話をして下さった方がある。
もう、それはご主人のおられる時分から親子二代に渡って洋服屋さんで、仕立屋さんである。
その息子さんの方が、どうしたことからか親子喧嘩してから、別れなさった。
それで、その資本金が、資本金と言うか何か金が行き詰まっておられて、お金を五十万貸してくれと言われるから、もうハッと言うて、もう本当に今から考えますとお取次ぎも頂かずにと、こう言っておられます。
そりゃ、ご主人が亡くなられる時に、たくさんのお金が入っとりますから、もうお金は十分に持っておられる方、ところが、それから利も子も上げずに、もう何年かになる。
そうしたら昨日、その人の奥さんと言う人がやって来てね。「家の主人をたぶらかしておる。家の主人と心安うなっとんなさる。それだから、貴女がお金を貸しとんなさる。」と言うて、えらい剣幕で、その怒鳴り込んで来なさった。
もう本当にびっくりしてからね。そして、その人は自分の兄弟、親戚にまで言うて回っとる。もう、私はもう体が、もう、それこそ、固くなってしまってね。もう、それでも「金光様、金光様」と言うて一生懸命、辛抱させて頂いて、こういう調子でお電話したっていかんと思うて、一晩ゆっくり心を落ち着けてから今お取次を頂いておりますと。
それで今から、親戚の方にもですけれども、向こうに白黒をはっきりつけて貰おうと行きますという様なことでした。
「そりゃ、なら、お繰り合わせ頂いとくけん、行って来なさい。はっきり自分の証を立てて来なさらにゃいかんですね。」と言う感じでしたけど、昨日の朝の御理解がそうでしたから、「これは一つ此処で貴女が黙って治めなさらんといかんですよ。」と言うて、昨日の御理解を簡単にさせて頂きましたら、もう本当に憑き物がおてた様に、「やっぱり、先生そうでした」と言うて、日頃頂いとる信心を、この場で、この際、活かさなきゃという気持ちが出きられたんでしょうね。そんなことでした。
一つは、宮崎から掛かって来たんですけれども、これはまあ、名前を挙げても良いですけれど、今、此処に、古屋と言う高鍋の古屋先生の長女圭奈子さんが、此処で、大学を中途で止めて、後一年経てば卒業出来るのを止めて修行に来てます。
まあ、昨日の言葉に、昨日はそこの高鍋教会の親教会である何とか教会に主人がおかげを頂きました。先生のお伴をして。
そしたら、向こうの親先生が、もう、まあ随分酷いことを言われたらしい。
「大体、道を間違えとる。手続きも何もあったもんじゃない。合楽にやるとは何ということか。」と、「しかも、合楽の先生が大学を中途で止めさして修行に入れる。もう、これだけでも合楽が間違えとることが判る」と。
私は、こんなことを続けて聞いたんです。
その前の日もですね。あのう、綾部さんから聞いたことでしたけれども。
教務所で偉い人達の会合がございました。此処から、綾部さんと秋永先生。
それこそ、教務所長がヤマかける様に、「秋永さん、お宅の教会では、よもや先生が大学を中途で止めて修行に入れてんなんてんちゅうことは言いなさるめえもんの」と言うて話された。
だから、九州中そのことが触れ回っとるごたる風じゃん。そりゃあそうですよね。家じゃ、大学の中途退学が、正徳先生、それから戎浦さん、それから、今度の圭奈子さん。それにもう一人誰かおったね、ああ、渕上君。と言う様に、確かに、そのう、けれどもやっぱり何十人おる中にですけれども、四人も例えば中途退学。
私は絶対どの人にでも、皆あと一年ぐらいですから、「遅くはならんよ」と、「もう一年ぐらい。だから、学校を卒業してからでも遅くはないよ」と、これは必ずそう言うのです。
けれども、もう止むに止まれん様に、そのう、まあ、言うとですから、まあ学校よりも信心を本気で身に着けた方が良い。本当は、実際、私はそう思うです。
だから、古屋さんの場合なんかも、夫婦でわざわざ此処へ娘の修行のお願いに見えられてからのことですけれども、もう、ご主人が大祭から帰って来てシューンとして帰って来とる。
「何かあったっですか」と言ったけれども、一時言われなかったけどあんまり不思議と思うて、いろいろ聞いたら「実は、圭奈子のことだ」と、こう言う。
そして、まあ簡単に今の様なことを、ね、「そりゃあ、お父さん、合楽の信心を貴方が研究しとんなさらんから、お話が出来なさらん。そりゃあ、私が今から、高鍋の 先生でも、向こうの先生でも、圭奈子があちらに修行に上がらせて頂くという顛末を、 もう神様からこうやってお知らせを頂いた、お夢まで頂いてこうじゃったああじゃった」と、もうそれこそ、大変に雄弁な先生ですからね、古屋先生は。「ですから、私が行って言い訳をして来る。」と、「とにかく、お取次を頂いて行くから」と言うので電話を掛けて来なさった。
ちょうど、そうでしたから、「そりゃあ、貴女が行って来なさるなら、立派に見事に、それこそ、立て板に水を流す様に、言い訳もして来なさろうばってんね。それでは、今日の朝の御理解にもとる。」ち、私が。
黙って、向こうでもそうに行こうごたる風であった。そりばってん、「今朝の御理解がねそうだから、もう、とにかく黙って治めなさい。そりゃあもう本当に、向こうの先生方がね、合楽の神様から揺さぶられよるごたるとですよ。揺さぶりばかけられござるとですよ。だから、そりゃあ本当は大変なおかげなんですよ。だから、ここは黙って治める。ね。言うならば、お徳を受ける。」と。
それこそ、どんなことでもです。
今度の竹内市長の当選は、もう四ヶ月という間、歴戦の中に、一日だって微笑みを絶やしたことがなかった。
その、「あの微笑みが当選の基だった」と、まあ、皆の新聞がそういう風に書いておったということですけれどもね、どんな場合であっても、向こうが向こうだからということではなくて、言うならば、微笑みを絶やさんで済む受け方というものが要るんです。それが徳を受けるんです。
昨日は、もっと深刻な、いろんなのがあったけど、まあ、ここで皆さんに申し上げられる訳にはいきませんけれどもね、皆そんなことでした。
結局ね、私は、朝の御理解というものは、その位の威力があるんです。
ですから、もう、朝のお参りをして朝の御理解の要点を頂いて「ああ、今日はこれで行こう。」というたら、絶対おかげです。
なら、今日は、商売に対する御教えだったから、もう早速、帰ったならば、家の商品に値段が付いとるなら、全部五分なら五分、一割なら一割安う書き換える。
今日は教えに基づいての行き方を身に着けていきゃです。もう必ずおかげです。
私どもは、いつも、例えば、そういう大祓いとか、いろんなお願いなんかの場合です、朝の御理解を基にして説きます。という位に、朝の合楽の御理解はもう神ながらのものなんですから。
昨日は、それこそ、この頃、大祭、それからでもなかったけれども、昨日は、家内達が熊本にいちご狩りのご案内を頂いておりました。
ちょうど、お風呂から上がってからお食事させて頂こうかと思うておる時に、そこに神ながらな或る問題が起こってですね、外へ出らせて頂いたら、藤の花がもうほとんどこう咲いとりました。
だから、「一丁、藤見なっとするか。」というわけで、表に、あの泉水の前にゴザを敷いてね、それから男の修行生ばっかり、もう三十名位男ばっかりで、あそこで藤見をいたしました。
神様のご都合ちゃ、本当に素晴らしいですね。
そこへ、ちょうど松村さんがいちご狩りから送って来て、お土産にね、大きな鉢にね、お寿司をね、お土産に持って来ているんです。
「はあ、神様ちゃ、今日の藤見を知ってござったばいな。」と言うごと。
それから、もう大祭の時のとよりも大きな鯛が、とにかく何十人前のお刺し身が取れる位な鯛のお供えを頂いとったから、それから、あただに久富先生がお刺し身を造られました。
そしたら、その泉水の鯉が片泳ぎしよるとがおるもん。(笑)何か薬を入れ過ぎたんです。
「それなら、それで鯉こくなっとん造れ。」ちゅうごたる風でね。(笑)
もうチョイトの間に、お御馳走が揃うたんです。
「なら、ビールば一箱持って来い。」ちゅうごたる風で、まあ、勿論、ビールはそれで足りませんでしたけどね。皆で、それち言ったっちゃ、まあ大したことはなか一本づつ位のことでしょうけど。人数が多いですから。
まあ、おかげでそういう風。それで私が皆にですね、「一句、ひとつ作りなさい。藤見の俳句を。一つ出来たら一本づつまた私がビールを追加することにする。」、
(笑)それで、何やら、妙な俳句がたくさん出来よりました。
私も一番最後に、私のは句じゃないけれども、まあ皆に聞いて貰うたんですれども、 「本当にのうや」、ちょいと、私が藤見ばすると言うて、あそこにズラリと並んだ笑顔がね。ほら、もうちょいと、もう、あげな笑顔はちょっと写真に撮っとこうと言う位、素晴らしい皆が笑顔をしてますですよ、やっぱ、ね。
だから、私は前に末永先生が座っとりましたから、「本当に、今から研修ばい。御祈念じゃちゅう時に、あげな笑顔で集まって来るごたるなら(笑)、絶対お徳ば受けるばってんな。」と言うて話したことでした。
ところがですね。本当に信心が好きになったらもう、研修がもう待ち永ごうしてこたえんですよ。ね。
なら、合楽の、例えば美登里会の小母しゃまどんなら、もう、そげんでしょうが。
もう、それこそ、飯塚までじゃろうが何処までじゃろうがね、行きなさるでしょうが。もう嬉しいしてこたえんごたる風で。
だから、やはり、それぞれお徳を受けなさるです。ね。
信心にはやっぱ好きにならなきゃ駄目だ。ね。
そして、私はね。「藤の花、ふじはふじでも富士の山」ち、そぎゃん申しました。
そりゃ、俳句じゃ無いですけれどもね。
「藤の花、ふじはふじでも富士の山」、これがね、今の合楽の目指しなんだ。
なるほど、合楽のことをいろいろ悪口を言いよる人でも、一度、合楽教会にお引き寄せ頂いたら、もうそれこそ、合楽にその場で帰依する位に素晴らしいものが内容にある。
ちょうど、藤の花の下まで来ると、こう見上げて見るという様なことになるけれども、外から見よった分にゃ判らん。
そのためには、やっぱり同じふじはふじでも日本一の富士の山というように、上に出て行く富士の山になったら、もうそれこそ、遠くからでも、やはりそれを見上げて讃えるということになる。
藤の花の信心から、ひとつ日本一の富士の山の信心を、お互い目指そうじゃないかと言うて、話したことでした。
そこでです。その「日本一の富士の山を目指す」ね。昨日、一昨日の研修の時に、北野の秋山さんが発表しとられました。 朝の御祈念に参って来たら息子が出て来とらんじゃった。学院から帰ってきました。 これはもう本当に、これは久留米の井上さん達でもそうですけれども、自分が朝参りに、必ず久留米からやって来る、こう見てみたら息子どんが出て来とらん。
もう、こげん気を揉むことはない。そして手紙には、「どうぞ、教師の中の教師にお取り立て下さい。」なんてね。そんげなこってどうして教師の中の教師にお取り立て頂くかと言う話を、息子達を前にして秋山さんが発表なさいました。ね。
本当に合楽におかげを頂いて、教師の資格でも取ろうかという位な人ならばです、やはり教師の中の教師にお取り立てを頂きたいという願いを持っておる。
持っておるならばです。いわゆる「さあ、今日は藤見でんするぞ。」という時の、あの笑顔で神様にうち向こうたら、こりゃ、もう絶対、教師の中の教師にお取り立てを頂くです。
もう、信心が有り難うして有り難うして、研修が嬉しうして嬉しうして、ね。
例えば、なら、朝早起きからがしるしい。しるしいけれども、根性だよ。どうでもこうでもという一心発起したらね、どんなに眠たい時でも、ちょうど子供が遠足なら遠足、運動会なら運動会の時にだけは朝目がパチッと覚めるでしょうが。
そういう覚める様なおかげが頂けれるって、そういう働きが起こって来るって。必ず。
二、三日、吉井の波多野さんがお参りがないから、熊谷さんが具合の悪うあんなさるとじゃろうかと思って行きなさった。そしたら、起きとんなさった。
「ありゃ、あなた起きとんなさったですか。」
「いや、そりが、私は、この頃いろいろ考えよる。何十年ズーッと合楽にお参りさせて頂いたばってん。ほんな、こうやって背虫のごと体をこうやって曲がってからお参りすると、他人から同情される。また他人から笑われる。あげんしてからまで参らんならんじゃろうかという様な風に言われたら、合楽の神様にかえって泥を塗る様な感じ。いつか、先生が仰った『他人から同情されるごたる修行じゃいかん。』ち、言わっしゃった。だから、他人から同情されるから、私は、しばらくお参りを止めてみろうち思いよる。」ち、言いなさるげなもん。
もう、これこそ、熊谷さんはビックリしてからね。もう、これ程の信心を、例えば、 何十年頂いて来なさって、こんなこと言いなさると言うてです、そのお届けがありよったら、後ろからひょろっと参って来とんなさります。
「アラ、参って来とんなさる」。
それから、二、三日のお詫びと特別なお初穂をして、此処に参って見えてから波多野さんが言われるのです。
そんなことは言われませんでした。「なるべく、もう一時ばかり止めてみようか」てんなんてん。これは、熊谷さんが聞いて来なさった。
ところが、「親先生、もう恐れ入りました」ち、「今朝はちょうど私の寝とる窓の向こうで、光昭先生の声でハッキリ起こして頂いた」ち、「もう、窓をちょいと開けて見らなん位にハッキリ起こして頂いた。」ち。
「もう、本当に恐れ入りました」と言うのは、なら、そげん思うとったことが間違っとったということを気付きなさったちゃろうと思う。
ところが、波多野さんという方は、もう何十年間、朝参りをし続けて来られた方なんですからね。
だから、「一心発起が出来とらなければ、出来ることじゃないけども、ちょっと、例えば、考え方を間違えておったらばです。神様がそげんしてでん、起こして下さるばい」と、私は昨日、研修の時申しました。
だから、問題はね、例えば、学院あたりならばそれで良かろうばってん、合楽では出来んて、そげなことは。
皆が例えて言うならば、教師の中の教師にお取り立て頂かねばならん人達ばっかりやないか。そんなら、ここに一つ、本気で一心発起しなさい。ね。
その時にはね、ちゃんと神様が、もうこりゃ、言うならば、おいひんやって目覚ましやって、起こして下さる様な働きが起こって来る。
これは本当ですよ。
目が覚めたならば朝参りしよう。目が覚めたならば、気分が良う起きられたならば朝の御祈念を頂こう。
そんなことで、例えば、なら、信者の中の信者でも良かですたい。ね。言うならば、 人並み優れたおかげやらお徳やら受けるということは、絶対出来ません。ね。
だから、それが身につくまでが信心辛抱です。
それこそ、体はちびるもんじゃないから、それこそ、働くが良い。ね。
例えば、なら、商売をするならば売り場、買い場と、こういろいろ教えておられるが、信心を、いや商売をするなら合楽理念を以てする外はない。
なら、信心の稽古を本気でしようと思うなら、合楽理念に基づいての修行でなからなければ、本なおかげは受けられない。
そこんところを、しだごだした様なことでは、おかげにはならんという風にも言えるわけです。
ね、だから、朝の御理解を頂いたなら、その朝の御理解をもうそのまま、私は、ね、 そのままち、全部が全部出来んでもです、一事でも今日はこれで行こうという腹を作ってです。ね。
今まで十銭で売りよった物を八銭で売るという位な実行力がなからなければ金光様の御信心は、おかげは受けられません。
話を聞くばかりが能ではない。わが心からも練り出せと仰るが、言うならば、それを早速実行に移さなければ、聞いただけじゃつまらん。
それには、やはり一心発起が要るということ。ね。そして、やはり信心が好きにならなければでけん。
皆さん、一つ、藤の花の信心からふじはふじでも、それこそ富士山の信心を目指そうじゃないですか。ね。
合楽に来てみりゃ判る。けれども、言うならば、それは合楽に来てみなきゃ判らん。
藤の花の下に立って見ると「ああ、美しか」ということが判るけれども、ね。
だから、いよいよ、なら、合楽の信心がです。いよいよ和賀心時代が、十三日会が、 世界の隅々にまでも拡がって行かなきゃならないという願いを、大きな願いをお互い持っておるのですから、ね。
誰が見ても「ほう、なるほど素晴らしいなあ」と言うて、遠くからでも眺められる様なね、富士山の信心を、私は身に着けて行きたいと思う。
それには、今日申しました様なね、本当に、例えば、商売人が売り場、買い場を大事にするとか、他所が十銭で売る物を八銭で売れと言われるそれを本当に守ることだ実行することだと言うことです。
それには、商売繁盛のおかげだけではない。商売人としての徳を必ず受けるだろう。 という様にです、教えというものがそんなに有り難い素晴らしいと思わせて頂けれるやはり体験を積んでいくうちにです、信心がいよいよ有り難いもの、いよいよ楽しいもの有り難いもの、とても一日でも欠かされんといった様な本当の信心が出来て来ると思うですね。 どうぞ。